熱風 1月号 続き

よく病人が最後に「水をくれ」って
言うというでしょう。
でも水を飲ませない。
「飲ませると死ぬから」って言うでしょう。
病人は氷のかけらしかもらえない。
なんで水あげないんだろうと、
僕は思うんです。
水が飲みたいと言ってそれを飲んだことで
死んだとしても、いいじゃない。
氷のかけらだけもらったって、ねえ。
僕はそれおかしいと思います。
一番いいのは「あなたこれから死にます」って
言われて、「ああ、そうですか、わかりました」
「じゃ、どうもご苦労さまでした」
「ありがとうございました」とか言って死ぬ。
僕はそういう死が一番いい。
いや、死にたいわけじゃないですよ。
だけど、そういうメリハリをつけて死にたいですね。
知らないうちに死んでいたとか、
そういうの嫌です。
自分の死っていうのはこういうものだと
思いながら死にたい。

どのみち死ぬんだから、どうやって
死ぬかということを心配するよりも、
死んだ時にみっともなくないように
しようと思いますね。
その程度でいいんじゃないかと思うんです。
だから今やらなきゃいけないことをやるために、
僕はもういっぱい薬飲んでますよ。
全然健康じゃないんですね。

どうやって自分の死に向かって
歩んでいくかっていうのを、何とかして
自分なりに掴(原文のまま)まなきゃいけない
と思いました。
チェーホフの最晩年の短編集を読むと胸を
衝かれるのは、それを受けとめようとして
書いているなという感じがするからです。
チェーホフの『イオーヌイチ』という短編が
ものすごく気に入ったんです。

ある人が年寄りはいいんだから放射能で汚染されたものでも、
年寄りが食えばいいんだっていうふうに言っていたけど、
僕は食わない。食わないようにする。
それはやっぱり、問題をあいまいにする。
年寄りなら食っていいんじゃないかという
考えは、福島に対する援助にならないと思います。
明確にすべきです。
「この食べ物はリスクがこれだけあります。わかりますか?」
「はい、わかりました。でも僕は食います」って、
そういうふうに判断していけるようにしてほしいです。
狭山のお茶もそうなんです。
初めきちんと検査して放射能が出た。
その結果発売が中止になっている茶園がありますけど、
ほかの茶園のもので基準値には達していないから、
検査済みというラベルを貼って出荷されているものがある。
ぼくは、はっきり検査の数字を出してほしい。
その上で自分が飲むか飲まないかを決めろと
言ってくれれば、僕は飲みます。
お茶園の知り合いもいます。彼のために飲みたい。
でも、今のあいまいさはいやですね。